イントロダクション
昨夜
昨夜、ピーという高い音を何度か耳にした。
何かの声だろうか、機械音のように聞こえなくもない。
鳥の鳴き声かもしれないが、鳥は夜に鳴くものではない。
あるいは、最近の鳥は夜でも鳴くのだろうか。
そんなことを考えながら風呂に入り、床に入った。
ベッドに横たわっている時にもその声は耳に届き、何かを思い出させてくれるような気がした。
でも、単なる気のせいかもしれない。
何かを思い出したいと思っていたから、その声をきっかけにしたかっただけなのかも知れない。
もっというなら、何かを思い出したいと思っていたことさえも気のせいかもしれないけれど。
ピーイィィィィ!
今朝
この事務所の自慢は窓から差し込む朝の光だ。
正確にいうなら朝の光に照らされた部屋の柔らかな気配だ。
そこでは全てが美しく、優しく、それでいてソリッドなのだ。
芸大でグラフィックデザインを学んだ事務員はみんなのために毎朝欠かさずコーヒーを淹れる。
ボルドーカラーのコーヒーメーカーからコポコポと音を立てて抽出されるそのコーヒーは、芸術的というわけではないけれど、その美しい部屋にふさわしい香りを漂わせ、充満する。
行政書士はー彼は大学の文学部で英文学を学んだが、特にイギリス文学に興味があるわけでもないーその香りを吸い込みながら朝の光に包まれたその部屋の景色を存分に満喫することがお気に入りだった。
「昨日の夜ー」
と行政書士が言いかけたところに、事務員が声を発した。
「コーヒー飲む?ごめん、なにか言いかけた?」
「いや、別に。コーヒーもらうよ、ありがとう。」
二人がコーヒーを飲みながら粗い粒子のような光の中に漠然とした視線を泳がせていると、行政書士補助者がいかにも不機嫌そうな顔つきで部屋に入ってきた。
この補助者はランダムに不機嫌になる才能に満ち溢れていて、それは大学院の博士後期課程で企業経営を学んでいることが原因というわけではないようだ。
補助者は不機嫌そうな目つきで部屋の中を見渡し、そのまま何も言わず再び部屋を出て行った。
事務員が補助者のためにコーヒーの準備をしようと立ち上がるとほぼ同時に行政書士も席を立ち、窓から外の景色を眺めた。
外には事務所からそう遠くない距離に山々が迫っており、視界の届く限り山に囲まれているこの土地の特徴が一目で見てとれた。
「音羽山。」
「なに?」事務員はコーヒーを準備する手を止めることなく返事した。その手の動きは今にも何かをこぼしそうな予感を孕んでいたが、実際は何一つ取りこぼすことはなかった。
「音羽山だよ、ほら、あの山。清水寺の山号になってて、奥の院もあの山にあるんだよ。清水寺も奥の院の寺も観音様が本尊だろ、ほら、音を観るって書いてさ、で、あの山も音羽山で音の羽って。なんか音に関する謂れがあるのかな。」
「へえ」事務員はコーヒーをテーブルに運びながら気のない返事をし、こう続けた「昨日の夜、なんか聞いた?」
会議
補助者が戻ってきた。
顔つきから察するに、さっきより少しは機嫌が良くなっているようだ。
事務員に礼を言ってコーヒーを啜る補助者の姿は動物園で人気の小動物のようだった。
「そろそろ始めようか」行政書士は言いながら、昨夜聞いた声がなんだったのか突然理解した。補助者の小動物のような姿がインスピレーションを与えたのかもしれない。「聞いたよ、鹿の声。ピーって夜の山に静かに響く鹿の声。秋に鳴く鹿の声って寂しげで沁みるよね。」
事務員も昨夜その声を聞いていたらしく、それが鹿の声だったと聞いて、あれ鹿の声だったんだ、と驚いていた。
補助者は興味なさげにコーヒーを啜り続けていたが、小動物がやるように耳をプルンと震わせたような気がした。
それを合図にしたわけではないけれど、この日の会議が始まった。
今日1日、今週1週間のスケジュールをひととおり確認し、全員が関わること、それぞれが行うことをお互いに認識した。
部屋に深く差し込んでいた光が窓際へと身を引き始め、時刻が正午に迫っていることを告げていた。
鹿たちは木々の隙間から漏れる光をその背中に受けながら世界の音を聴き、プルンと耳を震わせた。