Dance at the Gardenーあるいはヤマビルはいかにして我々の靴下を上るかー
5月の美しさが過ぎ去った梅雨時の空気はどこか陰鬱なようでもあり、来たるべき夏に備えた陽気さをその奥底に隠し持っているようでもある。
窓の外には
「わー。ジャングルみたい。」
事務所の窓から外を眺める補助者がまったく表情のない声色で言った。
一体なんのことかと思い、行政書士も窓から外を眺めてみると、ここは屋久島かとツッコみたくなるほど豊かに植物が育った庭の景色を目の当たりにした。
事務所の庭は建物の裏手にあり、さらにその向こうは道路なのだが、結構な高低差があり、壁のようになっている。
したがって、その庭は外部の目に晒されることがほとんどなく、日々の業務に追われている行政書士、補助者、そして事務員にもあまり意識されることがない。
その結果、ここしばらくの陽気と雨天のおかげで草花は完全なるコンディションを手にいれ、元気いっぱいに育ってしまっていたのだ。
草だけでなく、色とりどりの花々も咲き乱れ、百花繚乱といった風情でさえある。
事務員も窓際によび、3人でしばらくうっとりと(あるいは呆然と)その庭を眺めた。
「まずは」事務員が口火を切った。「この庭をなんとかするのが最優先の仕事みたいだね。」
「じゃあ、午後から早速やろう!」と補助者が言った。
「ちょっと待って」若干食い気味に事務員が答えた。「それについての会議から始めよう。」
事務員の指摘はいつも正しく、思慮深いのだ。
庭が議題の会議
すでに気候は夏の気配を湛えており、日中に庭で作業を行うのはハードすぎるというのは明白な事実だった。
そこで、実際に作業を行うのは午前中にしようということになった。
日取りについては、雨が降っていない日。
ピーカンの晴天よりも、曇天の方が理想的であろう。
梅雨の期間に入っているので、雨が降っていないチャンスを逃さずに活かさなければならない。
土用はもちろん、避けなければならない。
春土用はすでに終わっているし、夏土用は7月20日から8月7日なので、今回は心配には及ばないだろう。
行政書士をやっていると、建築関係のクライアントと関わることも少なくない。
世間で言われているように、建築関係の方々は、土用に対する意識がその他の業界の人間よりも敏感であると実感する。
行政書士も事務員の影響で暦を気にするようになって久しく、この辺りは事務員に対してとても感謝している。
ニュースなどでは異常気象についてよく語られるが、二十四節気や雑節などを見ていると、この世の大いなるサイクルが美しく循環していることを肌で感じることができるのだ。
補助者のおそれ
事務所の庭のメンテナンスについて概ねのコンセンサスが形成された頃、補助者がモゴモゴとなにか言いたげな気配を漂わせた。
「どうした?」行政書士がその様子を察して聞いた。「他にも言っておいた方がいいことあれば、言っておいてよ。」
少しだけためらったように視線を漂わせた後、補助者が言った。
「えーと、あの、うんそうだね。いや、ヤマビルが出たらやだなあって。ほら、さっきみんなで見たけど、庭ってジャングルみたいになってるだろ?だからさ、庭掃除してる時にヤマビルが出たらやだなって思ったんだよ。」
懸命に意見を述べる補助者を見て、行政書士と事務員は顔を見合わせ、一瞬、間を置いてから笑い声をあげた。
「なになに?なにが面白いの、2人とも?」
補助者はわけがわからないという表情で戸惑っている。
「君はヤマビルのことが気になって仕方ないようだね、いつも。」と行政書士が言った。
それを聞いて、ますます堪えきれないというように事務員が笑い声をあげた。
笑い転げる2人を前にして、何がなんだかわからない補助者は不機嫌そうな様子だ。
ともかく、そういうわけで、ガーデニングブーツを3足用意することになった。
もちろん、事務所の備品として。
今週のお題 「最近買った便利なもの」
The memories are sweet, too sweet
プロローグ
その紙切れがただの紙切れか、あるいはメモなのかを決めるのは何であり、いつであるのかというのは一筋縄ではいかない問題のようでもある。
そこに何事かが記されていて、その内容にそれなりの意味を見出すことができれば、それは一応メモと呼ぶことができそうだ。
したがって、それがメモかどうか決されるタイミングに関しては、その意味を見出した瞬間ーそこになんの意味もないと決定した瞬間と言い換えても良いがーとしておくのが適切だろう。
そのようにして、ただの紙切れがメモと判断され、決定されたことからこの物語は始まる。
いつものように
「これなーんだ?」状況から判断したところ、明らかに過剰な喜びを伴って補助者が場に深遠な問いかけを投げた。
「ゴミ」行政書士が即答した。
ゴミ以外の回答が思い浮かばないほど見事にゴミな物体だったからだ。
適度に丸められた紙片は、それが宿命的にその役目を終えたことを物語っていたし、少し黄ばんだ色合いは、忘れ去られてからの時間の経過を顕著に表していた。
その回答に補助者は明らかにガッカリした様子だったが、事務員の「でも、なにか書いてるみたいだよ」という言葉が補助者を勇気づけた。
「そう!」再び最初の喜びを伴って、補助者は語りはじめた「そうなんだよ!これはおそらくなにかのメモなんだ。でもまだ中身は確認していないんだ。三人で一緒に見たいと思ってさ」
事務員の言葉によって、行政書士の好奇心はもはや押し留められないほど掻き立てられていた。
事務員は、ただ文字が書いているからといってそれを指摘するような質ではないのだ。
そこに意味があり、その意味に拡がりがある時でなければ、決して口を出さない。
「ちょっと見せて」そう言って、行政書士は補助者の手の中にあったクシャクシャの紙切れを受け取った。
なるほどたしかに、そこには文字が書いているようである。
雛鳥を扱うように慎重に紙片を開こうとしていると、事務員がふと「Sweet Memories」と言った。
行政書士と補助者はキョトンとして顔を見合わせてから、恐る恐る(この時の二人の心情はまさに「恐る恐る」というのがピッタリだった。それはつまり確実な予感から来る恐れだった。)紙片を開いた。
そこにはこう書かれていた。
「The memories are sweet, too sweet」
行政書士と補助者は一瞬体をこわばらせてから、同時にその文字を読み上げた。
それを聞いた事務員は「うん、そんな気分だね。今日はうちの福利厚生やろっか」と言った。
しらぬひ行政書士事務所では、職員の福利厚生としてセッションタイムを設けており、楽器の演奏を楽しむことができるのだ。
楽器は事務所に常備している、もちろん。
行政書士は驚いたような、呆れたような顔をして「いいね。わざわざ言うまでもないかもだけど、曲はSweet Memoriesでいこう」と言った。
補助者は訳が分からないといった様子で行政書士と事務員の顔を何度か交互に見てから、「じゃあ、楽器の用意するね!」と言って無邪気に笑った。
今週のお題「メモ」
A Dog on the Moon
描ける
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- 「「絵が描ける」っていう言葉って不思議だと思わない?」
- 補助者の言葉はいつだって唐突だ。だが行政書士はいつだってその言葉に付き合うことにしている。補助者は人格的にはかなり良い人間だ(と思う)し、行政書士が一人では思いもしない問答に付き合うことで脳のトレーニングにだってなる。そう信じている。
- 「だってさ、絵なんて誰だって描けるよ。世の中にはイルカが描いた絵なんてものまであるんだよ。」
- 「イルカが描いた絵がこの世にあるからって誰だって絵を描けることにはならないだろう。」
- 「うん、それはまあそうなんだけどさ、だからさ、イルカが口に咥えて筆で書き殴ったものだって「絵」と呼ばれるわけだろ?じゃあ、キャンバスの上に点のひとつでも打てばそれはもう絵じゃない?だよね?」
- 「なるほど、その理屈でいくと絵が描けないという意思表示はどのような状態を表すのか、という疑問が発生しなくもない。」
- 「だろ?もちろん、人の事情ってのはさまざまだからさ、絵に対してなんらかの事情を抱えてて描けなくなっちゃったって人がいる可能性は否定できない。でも言いたいのはそういうことじゃなくて、特段の事情があるわけでもないけど、例えばちょっと犬の絵描いてみてとか言われて、ごめんなさい、僕、絵は描けないんです、っていう感じの話。「描けない」じゃなくて「描かない」じゃないのかって。」
- 「うんうん、いいね。じゃあこういうのはどうだろう。その人物は実のところ、物理的にも心理的にも犬の絵を描くことには何の問題も抱えていない。だけど、犬の絵を依頼された時たまたま気分が乗らなくて断りたかった。でも「描かない」なんてはっきり断ったら今後の付き合いに差し支えると社交上判断した。つまり言葉をソフトにしようと意図した結果「描けない」という言葉が選択された。」
- 「たまたま気分が乗らないって?」
掛ける
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計りに掛ける
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-
「知らないよ。毎朝必ず食べることにしているお気に入りの食パンを焼きすぎて消し炭みたいにしちゃったけど、それはすごく美味しいパンだし、手に入れるのもなかなか骨が折れる代物だからすごく悩んだ。食べるには焦げすぎている、しかし捨てるにはもったいな過ぎる。まあその選択を計りに掛けたってわけだね。」
-
「で、そのパンをどうしたの?食べたの?食べなかったの?食べたとしたら、どんな食べ方?やっぱりバター?それともジャム?まさかバターの上にジャムとか?」
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椅子に掛ける
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火に掛ける
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少し離れた場所にある椅子に腰掛けていた事務員がゆっくりと立ち上がり、水を張ったヤカンを火に掛けた。
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「食べた。まさかのマスカルポーネ&ジャムで。マスカルポーネの濃厚さとジャムの甘酸っぱさが焦げの苦さを中和してくれるからね。ちなみにジャムはアプリコットだ。」
-
「おお〜!」
-
「そんな大事件が朝からあったんだから、同じ日の午前中に犬の絵なんて描けっこない、そうだろ?」
-
「たしかにそうだ!お気に入りの食パンを好みの焼き具合に仕上げられなかった日は誰だって意気消沈するもん!」
-
「な?そんな人が正確には「描かない」と言うところを「描けない」と表現したからと言って、誰が責めることができようか。」
-
「ホントだ。自分の思慮の足りなさを痛感したよ。」
-
-
服を掛ける
-
「いいんだよ、誰にだって間違いはある。それに気づいて繰り返さないことが重要なんだ。さあ、コートを脱いでそこに掛けなさい。」
-
-
椅子に掛ける(再掲)
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「うん、繰り返さないことが重要!あんまり気になる話だったから、コートを脱ぐのも忘れて話しちゃった。」補助者はそう言ってコートをコートハンガーに掛け、椅子に腰掛けた。
-
キッチンからは幸せの匂いが漂っていた。コーヒーと焼かれたパンの匂い。朝に鼻腔をくすぐるものでこれ以上のものがあるだろうか。
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塩を掛ける
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駆ける
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その日の夜、幸福を具現化したかのようなサンドイッチのことを思い出しながら、行政書士の想いは夜の空を駆ける。
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空から眺めた自分の事務所はちっぽけな存在で、見つけるだけでも簡単じゃない。
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いや、それだけじゃない。聳え立つスカイクレーパーだって、地上から見た時の圧倒的な存在感はまったく影を潜めている。
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欠ける
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- 空を漂う行政書士の目にはっきりと映るのは、月。
- 月は欠けていくサイクルに入っている。その様は仄かな不安と大きな期待を呼び起こすものだった。
賭ける
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- 賭けるしかないのだ、と行政書士は思う。
- 賭けて、初めて勝負が始まる。どちらに賭けるかで勝負が決まるのではない。
架ける
描ける(再掲)
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- お月様に犬の絵だって描けるよ。
今週のお題「かける」に寄せて書いてみました。
はてなブログに記事を書くのは久しぶり(実に1ヶ月以上のブランク)になります。
その間、ふとした拍子に別の場所で文字を書く楽しみを知ってしまい、はてなブログにご無沙汰する結果となったのです。
その別の場所とは、iPhoneのメモアプリです。
そこにただダラダラと文章を書くのでは、当然楽しくも何ともありません。
しかし、箇条書きの機能を使って書き始めた時、私の脳内にイカズチが走りました。
「か、書きやすーい!」
それ以来、予定も日記も、あらゆることをメモアプリに書きまくっていたのです。
で、さすがにはてな放置しすぎかな…と恐る恐るログインした私の目に静かに、しかし確かな存在感でアピールして来たのが下の記事でした。
なんとまあ、人生というのは本当に不思議なものです。
自分だけの大発見!なんて興奮していたのに、多くの方はすでにお使いだったのですね(当たり前か)。
この記事ではWorkflowyというソフトがおすすめされていましたが、私はそんなに本格的なものを書くわけでもないので、iPhoneのメモアプリで十分です。
外で思いついたことはどんどんメモアプリに書き込んでいって、帰宅したらMacBookでメモ開いて、はてなの編集画面に貼り付けて…って感じで、書いた形跡をあえて残したのが今回のエントリになります。
実際に使うアプリはどれでもいいと思うんですが、アウトライナーの威力をまだ試されてない方はぜひ一度お試しください!
犬の絵だって描けちゃいますよ!
年末スケジュール
年の瀬
年の瀬だからといって特別なにか変わるわけじゃないし、なにか変わったことをする気もないけれど、年の瀬にはやはりそれなりにその気配というものがあるのもまた事実である。
行政書士、補助者、事務員の3人は年末のスケジュールについて話し合いを行なっていた。
事務所における年末のスケジュールというと、年末の休みはいつからいつまでにするかとか、官公署の窓口の営業時間の確認とか、そういう内容が妥当なのだろうけど、彼らにおけるそれは少々様相が異なるようだった。
「ねえ」火蓋を切ったのは事務員だった。
「忘年会はいつにしよっか?お店はどこが良いだろ。初詣は行く?行くならどのタイミング?場所は?年始の演武は参加する?来年は実施されるのかな?どうなんだろ。この前の稽古の時に誰かなにか言ってなかった?まあ、言わないか。」
「うん、誰もなにも言ってなかったね」行政書士は最後の質問にだけ応え、一瞬にして吹き荒れた『いつ』と『どこで』の嵐についてじっくりと想いを馳せた。
「そうだね、たしかに誰も年始の演武には触れなかったね、毎年のことだけれど。」
行政書士がかろうじて返答をしている間、補助者は神妙な表情でスマートフォンの画面を見つめていた。
訪れる予定もない土地の天気が悪天候である予報でもみてがっかりしているのかもしれない。
未来
「やっぱそうかーそうだよね」100%の確信があったと言わんばかりの勢いで事務員は言った。
「先のことを考えるのってそんなに難しいのかな。明日は必ず来るのに。明後日も明々後日もその次の日もずーっとぜーんぶ必ず来るのに。ねえ、そう思わない?」
「うん…そうだよね、その通りだと思う。」行政書士は一瞬考えて何か気の利いたことでも言ってみようかと思ったが、考え直してその話を肯定するだけにした。
事務員の話は一見無邪気な疑問のように見えるが、実際は気が遠くなるほど緻密なラインが想像を絶する角度から絡み合い、それらが溶け合い、高めあい、これ以上ないというほど濃密な塊が発出したものなのだ。
それは昔から不変のクオリティを保っており、また同時に他者が下手に口を出せば台無しになってしまうほどに繊細なものであることを行政書士は承知していた。
「でも」ここで補助者が口を開いた。世界中の天気を見終わったのかもしれない。
「そういうのってあるじゃん?恒例のことだから、あらためて言うほどのことでもないとか?」
「恒例のこと?」事務員はこの世で最も不思議な話を聞いたかのような表情で補助者を見た。
「去年と今年はコロナの関係で実施されなかったけれど、最近は少しずつ他のイベントも再開し始めてるよね。じゃあ次のが実施されるかどうかは全くイーブンじゃない?で、どうなの?仮にー今は仮の話しかしようがないわけだけどーあったとしたら二人は参加するの?しないの?」
「そうだね」行政書士が話し始めた。
「仮にあったとしたら、久しぶりだし行きたい気分ではあるね。でも最近あまり稽古にも参加できてないし、これから本番までに稽古時間を確保できる見込みもないからなぁ…」
「たしかに」補助者が息を吹き返して言葉を添えた。
「あのイベント自体は清々しくて好きなんだけど、稽古不足は気になるね。うーん、どうだろ。」
二人のコメントを聞いた事務員は痺れを切らしてこういった。
「関係ない話はやめて。行くの?行かないの?」
道標
一瞬。
そう、現実的に考えてそれは一瞬の時間だったのだろう。
しかし、行政書士と補助者にとっては長いとも短いともつかないものだったに違いない。
宇宙の隅々まで把捉しようと全身から無数の触手を伸ばし、光の速さでー願わくば、それをも超える速さでー伸びるその先端が無情にもなにものにも触れることができずに虚しく空を切り、もはや無用となったそれは途端に生命力を失って身体から切り離され塵となった。
大量の触手を発生させ、そしてそれを失うことで多大なエネルギーを消費してしまった行政書士は、わずかに残ったエネルギーの残滓のようなものを頼りに、言った。
「今回はやめておくよ。」
固唾を飲んで見守っていた補助者の全身から力が抜けていくのがわかった。
「了解。じゃあ、コーヒー淹れるね。」事務員はそう言うと同時に、羊の毛皮を敷いたお気に入りの椅子から立ち上がった。
意思
「起きたこと、起きていること、起きそうなこと、起きるかもしれないこと」事務員はコーヒーを入れながら背中をこちらに向けたままで話し始めた。
「そんなものに惑わされないで。事実に迷わないで。どうするか、どうすべきかを考える時にメリットやエビデンスを探さないで。それは、行ったこともなく、今後行くあてもなく、実在するかどうかすらわからない和菓子屋のあんみつに入っている白玉の固さを気にするようなもの。」
行政書士と事務員は身じろぎもせずその話に聞き入っていた。
「わかった」と行政書士は言った。
「もうそんなものの硬さは気にしない。もちろんやわらかさもね。」
「いちいち面倒なんだね」事務員は心底呆れたような顔をしながら、コーヒーを運んできてくれた。
「ありがとう」と行政書士と補助者は声を揃えて言った。
その日のコーヒーもいつもと同じ美味さだった。
示唆的な話を聞いたからって、コーヒーの味が変わったりはしない。
これは現実の世界なのだ。
メタファーについて語る行政書士とその補助者
開口一番
「そういえば、どうでもいい話してもいい?昨日の帰り道の話なんだけど、あっ、帰り道ってのは学校からの帰り道ね。ほら、昨日教授達と話し合いやってきただろ、で、その話し合いの中で…って、いやいやちょい待ちその前にどうでもいい話のほうなんだけどさ、いい?」
部屋に入ってきて扉が閉まり切る前に補助者はまくしたてるように話し出し、ここまで話し終わったと同時に、まるでひと段落つくタイミングを測ったかのように扉がバタンと音を立てて閉まった。そして、どうでもいい方の話をしても良いかどうかの回答を待つことなく、続きを話し出した。
「それでさ、ホームに立ってたらさ、これがホント信じられない話なんだけど、電車が入ってきたわけ、いや、電車が入ってくるのは全然信じられるんだけど、もちろん。いや、信じられないってのは電車のことじゃなくて、そこのホームで待ってた人のこと。まあ、平日の昼間だったからそんなにいっぱい人がいたわけじゃないんだけど、うん、そんなにはいなかった、あの駅が混むのはどちらかといえば平日では夕方かなーって、それはどの駅でもそっか、でも住宅地の駅だと朝が混むよね、やっぱ、っていやいやそうじゃなくてビックリした話なんだけど、うーん、どこまで話したっけ、あっそういえば教授がさ、○○短大の授業ひとつ持たないかっていうんだけど、どう思う?やって良いかな?いい?オッケーやってみるね。」
回答
「うん、やってみればいい。いい経験になるんじゃないかな、人様に何かを教えるってのはとても良い。何がいいかって、アウトプットを意識せざるを得ないからなんだよね、ありがちな話だけど。何かを学んだり、習得しようとするときにはアウトプットを意識しろっていうのはとてもありがちな話だよね。でも、意識しようと思ってもなかなか現実的には意識できるもんでもないし、『アウトプット、アウトプット』って頭の中で呪文のように唱えてみたところで効果がないことは多くの人が経験済みだろう。けど、否が応でもアウトプットを意識する方法が、人に教える前提で学ぶってことなんだよね。自分ではわかったつもりのことでも、いざ人に、とくに公式の場で教えないといけないってなると、自然と復習してしかも今まで自分でも気づいてなかったことに気づいたりして、すごく良い勉強になる。だから、やってみるといいんじゃないかな。」
行政書士はここまで一息でしゃべったかと思うとまだ呼吸に余裕があったらしく、大きく息を吐きだして、さらに大きく、しかし静かに息を吸い込み、再び話し始めた。
「で、あの駅でもやっぱり平日は夕方が混むんだ?住宅もそれなりにあるけど、商業施設が結構多いしそれになんといっても駅前にあのレベルの大学があると大学のための駅って印象が強いから、昼過ぎから夕方前あたりが一番混むのかと思ってた。大学生だしどうせ最後の授業まで出る学生なんてほとんどいないだろ?とはいえ、大学ができる前からそれなりに利用者がいる駅だから、やっぱり居住者の利用のほうがメインなのかな、どうなんだろ。」
ここまで事務員は一言も発していない。ただ黙って二人の話に耳を傾けているだけだ。あるいは一言も耳に入っていないから、一言も発さないのかもしれない。
「で、なににビックリしたかっていうと」と、わずかなスキを見つけて補助者が続きを話し出した。
「教授はなんて?」それを遮るように行政書士はルートを修正した。
「うん、それなんだけど」補助者は素直にそのルートに乗った。生まれながらに素直なのだ。
「教授が言うには、今度の実験に用いる刺激はどうやって作るのかっていうのが気になるらしいんだ。ほら、今度の実験刺激ってメタファーだろ?まあそれはそれっぽいものを作ったとして、それがメタファーであるということをどうやって証明するか、とかその作成方法が妥当であることをどう説明するか、とか。そこんところが解決しないと実験の全体像の設計が難しいと思うって。」
「メタファーがメタファーであることの証明」と、行政書士は繰り返した。
「そう、メタファーがメタファーであることの証明」と、補助者も繰り返した。
「メタファー亀、タフであることの証明?」と、事務員が言った。
「リテラルに解釈したら文意が通らないものはメタファーであるっていう考え方、つまりリテラルプライマシー理論をベースに組んでみたら?古典的だけど、彼らにはそれぐらいが丁度いいだろ?」行政書士は笑いをこらえながら言った。
「あー、それいいかも。てか、それでいこ!」補助者はいたく満足げな様子で大きくうなずき、元気よく部屋から出ていった。
「コーヒー飲む?」と事務員が聞いた。
「もちろん」行政書士はいたずらっぽく笑って事務員からコーヒーカップを受け取った。
「メタファー亀ってタフなの?」と聞いてくる事務員に、行政書士は「ありがとう、美味しいよ。」とだけ答えた。もちろん、笑いをこらえながら。
イントロダクション
昨夜
昨夜、ピーという高い音を何度か耳にした。
何かの声だろうか、機械音のように聞こえなくもない。
鳥の鳴き声かもしれないが、鳥は夜に鳴くものではない。
あるいは、最近の鳥は夜でも鳴くのだろうか。
そんなことを考えながら風呂に入り、床に入った。
ベッドに横たわっている時にもその声は耳に届き、何かを思い出させてくれるような気がした。
でも、単なる気のせいかもしれない。
何かを思い出したいと思っていたから、その声をきっかけにしたかっただけなのかも知れない。
もっというなら、何かを思い出したいと思っていたことさえも気のせいかもしれないけれど。
ピーイィィィィ!
今朝
この事務所の自慢は窓から差し込む朝の光だ。
正確にいうなら朝の光に照らされた部屋の柔らかな気配だ。
そこでは全てが美しく、優しく、それでいてソリッドなのだ。
芸大でグラフィックデザインを学んだ事務員はみんなのために毎朝欠かさずコーヒーを淹れる。
ボルドーカラーのコーヒーメーカーからコポコポと音を立てて抽出されるそのコーヒーは、芸術的というわけではないけれど、その美しい部屋にふさわしい香りを漂わせ、充満する。
行政書士はー彼は大学の文学部で英文学を学んだが、特にイギリス文学に興味があるわけでもないーその香りを吸い込みながら朝の光に包まれたその部屋の景色を存分に満喫することがお気に入りだった。
「昨日の夜ー」
と行政書士が言いかけたところに、事務員が声を発した。
「コーヒー飲む?ごめん、なにか言いかけた?」
「いや、別に。コーヒーもらうよ、ありがとう。」
二人がコーヒーを飲みながら粗い粒子のような光の中に漠然とした視線を泳がせていると、行政書士補助者がいかにも不機嫌そうな顔つきで部屋に入ってきた。
この補助者はランダムに不機嫌になる才能に満ち溢れていて、それは大学院の博士後期課程で企業経営を学んでいることが原因というわけではないようだ。
補助者は不機嫌そうな目つきで部屋の中を見渡し、そのまま何も言わず再び部屋を出て行った。
事務員が補助者のためにコーヒーの準備をしようと立ち上がるとほぼ同時に行政書士も席を立ち、窓から外の景色を眺めた。
外には事務所からそう遠くない距離に山々が迫っており、視界の届く限り山に囲まれているこの土地の特徴が一目で見てとれた。
「音羽山。」
「なに?」事務員はコーヒーを準備する手を止めることなく返事した。その手の動きは今にも何かをこぼしそうな予感を孕んでいたが、実際は何一つ取りこぼすことはなかった。
「音羽山だよ、ほら、あの山。清水寺の山号になってて、奥の院もあの山にあるんだよ。清水寺も奥の院の寺も観音様が本尊だろ、ほら、音を観るって書いてさ、で、あの山も音羽山で音の羽って。なんか音に関する謂れがあるのかな。」
「へえ」事務員はコーヒーをテーブルに運びながら気のない返事をし、こう続けた「昨日の夜、なんか聞いた?」
会議
補助者が戻ってきた。
顔つきから察するに、さっきより少しは機嫌が良くなっているようだ。
事務員に礼を言ってコーヒーを啜る補助者の姿は動物園で人気の小動物のようだった。
「そろそろ始めようか」行政書士は言いながら、昨夜聞いた声がなんだったのか突然理解した。補助者の小動物のような姿がインスピレーションを与えたのかもしれない。「聞いたよ、鹿の声。ピーって夜の山に静かに響く鹿の声。秋に鳴く鹿の声って寂しげで沁みるよね。」
事務員も昨夜その声を聞いていたらしく、それが鹿の声だったと聞いて、あれ鹿の声だったんだ、と驚いていた。
補助者は興味なさげにコーヒーを啜り続けていたが、小動物がやるように耳をプルンと震わせたような気がした。
それを合図にしたわけではないけれど、この日の会議が始まった。
今日1日、今週1週間のスケジュールをひととおり確認し、全員が関わること、それぞれが行うことをお互いに認識した。
部屋に深く差し込んでいた光が窓際へと身を引き始め、時刻が正午に迫っていることを告げていた。
鹿たちは木々の隙間から漏れる光をその背中に受けながら世界の音を聴き、プルンと耳を震わせた。