年末スケジュール
年の瀬
年の瀬だからといって特別なにか変わるわけじゃないし、なにか変わったことをする気もないけれど、年の瀬にはやはりそれなりにその気配というものがあるのもまた事実である。
行政書士、補助者、事務員の3人は年末のスケジュールについて話し合いを行なっていた。
事務所における年末のスケジュールというと、年末の休みはいつからいつまでにするかとか、官公署の窓口の営業時間の確認とか、そういう内容が妥当なのだろうけど、彼らにおけるそれは少々様相が異なるようだった。
「ねえ」火蓋を切ったのは事務員だった。
「忘年会はいつにしよっか?お店はどこが良いだろ。初詣は行く?行くならどのタイミング?場所は?年始の演武は参加する?来年は実施されるのかな?どうなんだろ。この前の稽古の時に誰かなにか言ってなかった?まあ、言わないか。」
「うん、誰もなにも言ってなかったね」行政書士は最後の質問にだけ応え、一瞬にして吹き荒れた『いつ』と『どこで』の嵐についてじっくりと想いを馳せた。
「そうだね、たしかに誰も年始の演武には触れなかったね、毎年のことだけれど。」
行政書士がかろうじて返答をしている間、補助者は神妙な表情でスマートフォンの画面を見つめていた。
訪れる予定もない土地の天気が悪天候である予報でもみてがっかりしているのかもしれない。
未来
「やっぱそうかーそうだよね」100%の確信があったと言わんばかりの勢いで事務員は言った。
「先のことを考えるのってそんなに難しいのかな。明日は必ず来るのに。明後日も明々後日もその次の日もずーっとぜーんぶ必ず来るのに。ねえ、そう思わない?」
「うん…そうだよね、その通りだと思う。」行政書士は一瞬考えて何か気の利いたことでも言ってみようかと思ったが、考え直してその話を肯定するだけにした。
事務員の話は一見無邪気な疑問のように見えるが、実際は気が遠くなるほど緻密なラインが想像を絶する角度から絡み合い、それらが溶け合い、高めあい、これ以上ないというほど濃密な塊が発出したものなのだ。
それは昔から不変のクオリティを保っており、また同時に他者が下手に口を出せば台無しになってしまうほどに繊細なものであることを行政書士は承知していた。
「でも」ここで補助者が口を開いた。世界中の天気を見終わったのかもしれない。
「そういうのってあるじゃん?恒例のことだから、あらためて言うほどのことでもないとか?」
「恒例のこと?」事務員はこの世で最も不思議な話を聞いたかのような表情で補助者を見た。
「去年と今年はコロナの関係で実施されなかったけれど、最近は少しずつ他のイベントも再開し始めてるよね。じゃあ次のが実施されるかどうかは全くイーブンじゃない?で、どうなの?仮にー今は仮の話しかしようがないわけだけどーあったとしたら二人は参加するの?しないの?」
「そうだね」行政書士が話し始めた。
「仮にあったとしたら、久しぶりだし行きたい気分ではあるね。でも最近あまり稽古にも参加できてないし、これから本番までに稽古時間を確保できる見込みもないからなぁ…」
「たしかに」補助者が息を吹き返して言葉を添えた。
「あのイベント自体は清々しくて好きなんだけど、稽古不足は気になるね。うーん、どうだろ。」
二人のコメントを聞いた事務員は痺れを切らしてこういった。
「関係ない話はやめて。行くの?行かないの?」
道標
一瞬。
そう、現実的に考えてそれは一瞬の時間だったのだろう。
しかし、行政書士と補助者にとっては長いとも短いともつかないものだったに違いない。
宇宙の隅々まで把捉しようと全身から無数の触手を伸ばし、光の速さでー願わくば、それをも超える速さでー伸びるその先端が無情にもなにものにも触れることができずに虚しく空を切り、もはや無用となったそれは途端に生命力を失って身体から切り離され塵となった。
大量の触手を発生させ、そしてそれを失うことで多大なエネルギーを消費してしまった行政書士は、わずかに残ったエネルギーの残滓のようなものを頼りに、言った。
「今回はやめておくよ。」
固唾を飲んで見守っていた補助者の全身から力が抜けていくのがわかった。
「了解。じゃあ、コーヒー淹れるね。」事務員はそう言うと同時に、羊の毛皮を敷いたお気に入りの椅子から立ち上がった。
意思
「起きたこと、起きていること、起きそうなこと、起きるかもしれないこと」事務員はコーヒーを入れながら背中をこちらに向けたままで話し始めた。
「そんなものに惑わされないで。事実に迷わないで。どうするか、どうすべきかを考える時にメリットやエビデンスを探さないで。それは、行ったこともなく、今後行くあてもなく、実在するかどうかすらわからない和菓子屋のあんみつに入っている白玉の固さを気にするようなもの。」
行政書士と事務員は身じろぎもせずその話に聞き入っていた。
「わかった」と行政書士は言った。
「もうそんなものの硬さは気にしない。もちろんやわらかさもね。」
「いちいち面倒なんだね」事務員は心底呆れたような顔をしながら、コーヒーを運んできてくれた。
「ありがとう」と行政書士と補助者は声を揃えて言った。
その日のコーヒーもいつもと同じ美味さだった。
示唆的な話を聞いたからって、コーヒーの味が変わったりはしない。
これは現実の世界なのだ。